「歴史に学ぶ」と「再発明する」

人生には、自分で出した答えしか残らない。
人に教えてもらった答えなんかすぐに忘れてしまう。
だから、自分で答えを出してほしい。
(多分、金八先生)

一方で、こんな言葉もある。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
(Wikiquote オットー・フォン・ビスマルク)

どっちなんだろう。

自分で経験して出して答えしか、結局は残らないんだよ、というものと、
歴史に学び、今あるものを利用するのが、賢いんだよ、というもの。

前者は、自分で再発明(車輪の再発明)してしまわないと、真に理解したとはいえない、自分で経験しないと自分のものにはならない、という金言だろう。
後者は、歴史は繰り返すだから過去に学べ、
人類は知識を引き継ぐことができるんだから先人に学べ、という金言だろう。

結論から言えば、ミッションクリティカルなものは、後者であり、
失敗が許容される環境(自分にしかしっぺ返しされない時)のものは、前者である。

もちろん、教育的な観点に立てば、前者だ。
こんな言葉がある。

・少年時代に小さな傷をたくさん作ったからこそ、その後の人生を無傷で過ごせてきた。
・たとえ失敗したとしても、のしかかってくるのは自分の体重のみ。
(NHKスペシャル 「公園から遊具が消える」)

で、最近思うんです。
「自分で答えを出したかのように、歴史から学ぶことはできないのか」と。

インターネットの登場と普及により、情報が共有されるようになった。
個人が保有していたノウハウが公開されるようになった。

その情報を使う側が、
「自分で答えを出したかのように、歴史から学ぶ」ことができるようになれば、
きっと、面白いのではないのかな、と思うのです。
いわば、情報提供者が経験した怪我を、追体験することはできないのか、と。

ん〜、まだ考えがまとまっていない。

【補足】
例えば、「勉強しなさい」という親からのアドバイス
親は、自分の過去からの教訓として言っているのだが、
子供にとって、その言葉の意味はわかるが、
そのアドバイスの本質までは分からない。
大人になって、あ〜勉強しておけばよかったな、と思う日がくるまで、
親の言葉の大切さがわからない。
こうではなく、
親のいった「勉強しなさい」という言葉を、
さも自分が経験したかのように、学ぶことはできないのだろうか。
という話。