分かりやすい文章を書きたい

分かりやすい、とはいかなることか分からないが、分かりやすい文章を書きたい。

こんな文章を読んだ。

「無から有は生じない」
 つまり、言うべきことがあるから話せるし、書けもする。
なければ、なにも話せないし、書けもしない。
さらに、どうしてもという思いが強ければ強いほど、筋道を立てて話さざるを得なくなるし、おのずとその人の個性があらわれて文章も光ってくる。
ここまでを逆に言うなら、「言うべきことがないから、たとえ、あっても弱いから、話せもしないし、書けもしない」のではないか。
 もっと言えば、小説家、劇作家、詩人、学者、エッセイスト、評論家、記者といった書き手たちは、言いたいことを見つけるのが上手な人たちであり、見つけた事柄について、「どうしても言わなければならぬ」と、短時間のうちに気持ちを盛り上げるのに長けた人たちではないか。
なにしろ、そうしないと世渡りができないのだから仕方がありません。
――と、このへんがヒントにならないでしょうか。
日々の暮らしの中から、自分の心の内から、なにか言うべきことを見つける、調べて考えて内圧を高めて、「これを言わないうちは死に切れない」と思いこむ。
少なくても私はそうやって急場を切り抜けてきました。
(にほん語観察ノート p62-63)

にほん語観察ノート (中公文庫)

にほん語観察ノート (中公文庫)

このあと話は表現方法に移り、井上ひさしは「(国語|漢和)辞典をひこう、いいものを読もう」という話を展開し、次の文章で締めくくります。

このように面倒くさがらずに毎日、辞書をめくって、ことばの数をふやし、同時に、その使い分けをたしかめながら、心の内に言いたいことを育てていく。
すべてはここから始まるのではないでしょうか。
(にほん語観察ノート p64)

で、超要約すると、
「内圧を高める」と「筋道を立てて話せられ」、「その人の個性があらわれて文章も光る」。

この「内圧を高める」ということが、分かりやすい文章を書くためのヒントであるような気がします。
何かを伝えたい、という思いが強ければ強いほど、分かりやすい文章が書けるのではないか、と。

そんでそんで、気持ちは十分にある、内圧ははち切れんばかりだ。
という状況だとしても、表現方法がまずかったら分かりやすい文章とはいえない。

井上ひさしは、「(国語|漢和)辞典をひこう、いいものを読もう」と述べ、語彙を増やし、いい表現に触れよう、と説きました。

私はもうひとつ必要だと思っています。
それは、論理です。

「ロジカル・プレゼンテーション」という本のアマゾンページに、次のようなコメントがありました。

論理的思考は、自分が理解するためでなく、人に説明するときにこそ重要だと以前から思っていた(以下略)
(By アセロラパン カスタマーレビュー)

ハゲドウです。

論理的思考は、思考を深め発展させる、という文脈でよく紹介される方法です。
しかし、なんといっても「人に説明するときにこそ」論理的思考は活きてくると思います。

で、人に説明するときの論理的思考について書いている「ロジカル・プレゼンテーション」が、私のような初心者にとっては、とても参考になりました。

この本*1の一部(第2章)を超要約すると、
「論理の飛躍、説明の不足(縦の論理を用いて)」と「漏れ、ダブり(横の論理を用いて)」をなくすことが、論理的思考である、てな感じです。

そういえば、立花隆さんもいろいろ言っておりますね、

ダメな文章を書く人間はどこがいけないのかがだんだんわかってきた。
要するに読む人の立場に立って自分の文章が読めないのである。
(中略)
書いた当人にしかよくわからない文章を一人よがりの文章という。
若いときはなかなか自分を客観視できないから、なべてに一人よがりになりがちだが、それが文章を書くときにもあらわれてしまうのである。
そうならないためには、自分の文章を他人の目で読めるように訓練しておくことが必要である。
(二十歳のころ〈1〉1937‐1958―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 (新潮文庫) p30-31)

ここで言われている自分の文章を他人の目で読むための方法が、論理思考力ではないかな、と思いました。

でもいざ本当に文章を書こうとしたときに、論理的にだとか、そんなこと考えてられないけどね。
要は、そういうことが大事である、ってことさえ意識できていればいいような気がする。
が、それじゃ甘いのかな・・・

ま、お察しだとは思いますが、
そもそもこのブログではそんなこと気にせず書いています!

*1:この本は、相手に提案することの意義と技術について書かれた本で、第2章(論理的思考)は序章に過ぎません、ということを断っておきます。