小説は辞書?

日ごろ、こんなことを感じていた。

「小説とは、あるひとつの言葉の長い長い定義文なのではないか」、と。
(ある言葉の唯一絶対の定義なのではなく、あまたある(矛盾!?)定義の中のひとつ)

例えば、愛とか友情とか、人生とか(照)。
そういう、コトバで到底表すことのできない普遍の言葉を表現しようとしたものが、小説なのではないだろうか、と感じていた。
(例えば、「ノルウェーの森」は「喪失」という言葉を定義してくれているような気がする)
(もちろん、まだ言語化できていない言葉(概念)を定義している小説も多いだろう)

ちなみに広辞苑では愛とは以下。

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生き物への思いやり。
②男女間の、相手を慕う情。恋。
③かわいがること。大切にすること。
④このむこと。めでること。
⑤愛嬌。愛想。
⑥おしむこと。
⑦〔仏〕愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。
キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。
⑨愛蘭(アイルランド)の略
(広辞苑 第5版) ※用例は省略

これだけじゃあ分からない。そこで小説だ!

なんてことを思っていたら、こんな文に会った。

僕は、初めから科学に魅せられていたわけではなかった。
大学生の頃は、文芸評論こそが、感動的な英知の賜物だと思っていた時期もあった。
(科学の終焉 p19)

(文学と文芸評論は違うが、まぁ近いでしょ)
で、次のような文もあった。

ヨーロッパで<国民文学>としての小説が、満天に輝く星のようにきらきらと輝いたのは、まさに<国語の祝祭>の時代だったのであった。
それは、<学問の言葉>と<文学の言葉>とが、ともに、<国語>でなされていた時代である。
そして、それは、<叡智を求める人>が真剣に<国語>を読み書きしていた時代であり、さらには、<文学の言葉>が<学問の言葉>を超えるものだと思われてた時代であった。
(中略)
ところが、<国語の祝祭>の時代に入り、まさに人々が<国語>で読み書きするようになるにつれ、<学問>と<文学>とが分かれていった。
(中略)
<学問が>専門化し、<学問の言葉>がしだいに専門的な言葉になってゆき、<文学の言葉>と分かれていったのである。
その結果、昔は宗教書にあった、「人間とは何か」「人はいかに生きるべきか」など、人間として問わずにはいられない問いに応えられる叡智に満ちた言葉は、専門化されていった<学問の言葉>には求められなくなった。
人々は、その代わり、そのような叡智に満ちた言葉を、<文学の言葉>に求めるようになったのである。
<文学の言葉>の中でもことに小説に求めるようになったのである。
<文学>という言葉が(漢文としての文学ではなく=引用者注)今いう<文学>を指すようになり、やがて小説というものがその<文学>を象徴するようになったとき、<文学>は、まさに<学問>を超越するものとして存在するようになった。
(日本語が亡びるとき p147-148)

つまりは、文学(小説)というものは、人間として問わずにはいられない問いに応えられる叡智に満ちた言葉、なのだそうです。

なんか、小説が世間的にそういう風に見られている、というのをはじめて知った。
こうゆう認識って、常識なの?

【補足】
なお、引用した「科学の終焉」「日本語が亡びるとき」の両方で、文学(小説)は権威をなくした、的な話になる。。。
そうは思わないけどな〜。小説、まだまだ面白いよ!