ブログ疲れた。

いえ、まだ疲れていません。
へたっているだけです。

昔々、僕は新聞の朝刊1面にある、新聞記者が書いていると思しきコラムらしきものに、
少しだけ心惹かれていた。
(朝日新聞でいうところの天声人語的なものだったと思います)

時代下って、ごく最近、
昔読んだ本をパラパラと読み返してたら、数行にわたって赤線が引いてあった。以下引用。

高校まで、要約って大嫌いだったんですよ。ぜんぜんできなくて。
――それはね、キミだけの責任じゃないかもしれない。
そもそも要約できないような文章を要約しろって言われたことも多かったんだと思うよ。
オレが小学生のときに隣のクラスでは、作文の練習だってんで、『天声人語』を要約する宿題が毎日出てた。
まったくナンセンスだよな。
――『天声人語』って朝日新聞のアレですか。
――そう。朝日のコラムね。あれは「論」じゃないの。
たとえば、同時多発テロ事件について書くときは、いろんな人の証言を次々引用していって、いろんな角度から事件の諸相を浮かびあがらせようとする。
それとか、多摩川にアザラシが現れて人気者になった事件を扱うときには、遠くから海を越えてやって来たお客さんという連想から、柳田国男の「椰子の実」の話に飛んで、そこからもう一人の民俗学の大物ってことで、折口信夫の「まれびと」論に飛ぶわけ。
つまり、このコラムの売りは、飛躍と連想なの。
どこまで飛べるか、というか、とっぴなもの同士をいかにうまく結びつけるかというのを楽しむんだよね。
論理的につながっていない文章だから、そもそも要約なんて意味がない。
アレを「論」の見本にするのは大間違い。
(論文の教室 p82-83)

ちょっとした文句に聞こえる文章だが、別に著者にそういうつもりはない(と思う)。
単に、学術論文のような、れっきとした「論」ではない、と述べているだけだ。

しかし僕は、この文章を読んで、ナルホド、と思った。
要約できるわけねぇだろ云々、という小気味良い論駁の中の、
「このコラムの売りは、飛躍と連想なの。どこまで飛べるか、というか、とっぴなもの同士をいかにうまく結びつけるかというのを楽しむんだよね」
という部分に、大いに、ナルホド、と思った。

ここではプラスの意味では使われていないが、僕は、
「これこそが、各新聞紙の1面を飾るコラムの醍醐味だったのか」
と神妙な気持ちで本の中に赤線を引いたときの神妙な気持ちを思い出した。

「飛躍と連想」
まさに、これはブログを書くときの大いなるヒントになるのではないだろうか。
(もちろんブログを書く人のテーマにもよると思いますが…)
そして、「どこまで飛べるか」ときたもんだ。
うん、楽しくなってきた。

どこまでも連想を広げて、無限の彼方へひとっ飛び。

いえ、別に僕はそのようには書けませんが、
そういう非論理的な文章の中にこそ、真理が宿るのではないかな、
というような気がなんとなくするのです。
論理こそが、絶対ではないんじゃないなのかな、と。

しかし、この朝刊1面のコラムを読んでいて思ってたのは、書き手の知識の豊富さ。
本当に何でも知ってるよね、っていいたいぐらい、色んなものから色んなものへと、
自由自在に飛びうつる。
文豪の有名な一文から市井の何気ない一文まで、幅広すぎ。
この知識の豊富さと、その知識の取り出し力の高さには、ほんと敬服します。
(いまは新聞読んでませんが…)

最後に、各社の朝刊1面コラムをまとめているサイトさんをリンクさせていただきます。

「新聞コラム社説リンク」
http://www.ne.jp/asahi/sec/eto/NewsPaperLink.html