受動思考

"本は触媒" だそうだ。

それはさておき、本は、次の2つの意味で"情報元"であると思う。

①自分の外部から情報を取得する。
②自分の内部から情報を生み出す。

"本は触媒" というのは、②を説明する言葉だろう。

本に触発されることで、自分の内部で化学反応が起き、
つい先ほどまではなかったものが生まれることがある。
これが②である。

ただその生まれたものは、本に書かれていたことではなく、
書かれている内容とも全然関係ないものであったりする。

とにかく、本を読むことで、
自分の頭の中の化学反応が、エネルギーを投入することなく促進されるのだ。

"考えること" と "本を読むこと" は、隣近所だからなのかな、と思う。
脳を使う場所が、分野的に近いんじゃないかな、と。
だから、考えようとしなくても、考えが思いつくのではないかな、と。

ウンウン考えることを能動的な思考と呼ぶならば、
本を読んでいる最中に勝手に思考が進むのは、受動的であるので、
そのときの頭の状態は、受動的な思考と呼べる。

ただ、この受動思考にも、やはり必要な条件があると思う。
それは、何かに対して、問題意識をもっていなければならない、ということだ。
つまり、化学反応とは、本の情報と自分の問題意識との化学反応なのだ。
なので、問題意識をもっていないと、化学反応は行われない。
ただ、何かへの問題意識というものは、大なり小なり、誰でも持っていることだから、"条件"というほど仰々しいものではないのかもね。

とまぁ、受動思考を使えば、以下のことが可能なんじゃないかな。

何か悩みを抱えながら、本を読む(関係ない分野の本でもいい)。
すると、読み終えた頃には、悩みを解決してくれるアイデアを得られる。
なんてことが。

問題をかかえこんでいる人にとっては、なんでもかんでもその問題に結びついてくる。
(はじめて考えるときのように p38)

っていう感じですね。

ナマケモノの自分にとっては、受動思考は楽な方法。
好きな本を読むだけで問題解決できるなんて、簡単すぎる。
でも、やっぱり万能ではないよね。。。
それに、能動的に考えることをしなけりゃ、人は強くなれない。
閃くのを待つのと、ウンウンと知恵を"絞る"のでは、やっぱり後者の方が正しい気がする。
ウンウンと知恵を絞って考えても答えが出なかった後に、閃くことが多い気もするし。
より苦しんだ後でなければ、やはり打開策は閃かないよね。

【実例】(自分に都合のいい例でスミマセン)
http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genius/05/02.html

【補足1】
"哲学の道"なんかのように、歩いている最中だとか、馬上だとか、枕の上だとか、いろいろと内部から情報(アイデア)が生まれるシチュエーションはよくあると思うのだが、やっぱり本を読んでいるその時が、一番アイデアが湧くような気がする。

【補足2】
触発されて考えることは、本当に"考える"ことなの?
受動思考は、本当に"考える"こと、といってしまっていいのだろうか。
相手(本)にお膳立てしてもらって閃いたことなんて、考えたことになるの?
(閃くと考えるはそもそも違うこと?)
もちろん、相手はお膳立てしているつもりはないのかもしれないが。