「問い」と「答え」の関係

またまた「はじめて考えるときのように」

試験などでも、教師は答えを知っているから、問題をうまく作れる。
逆に答えを知らず、答えの方向もわからない人には、うまく問題が立てられない。
だけど問題がうまく立てられないと、うまく答えることもできない。
じゃあ、答えがわかる前に、どうやって問題を立てればいいのか。
これが問いの逆説だ。
(はじめて考えるときのように p57)

答え(もしくは答えに到る方法)を知っているから、問題が作れる。
しかし私たちは、答えを知らないのに、問題を立てる。
そして、その問題に、自ら答えようとして、考える。

考えるということ。問題を考えるということ。それは問題そのものを問うことだ。
問いへの問いが、答えを求める手探りといっしょになって、らせんを描く。
答えの方向が少し見えて、それに応じて問いのかたちが少し見えてくる。
そうするとまた答えの方向も少し見えてくる。
そうするとまた答えの方向も少し見やすくなってくる。そうして進んでいく。
問いの逆説は、ぼくらを身動きできなくさせる呪文じゃなくて、ぼくらはまさにその逆説に突き動かされて考えていく。
(はじめて考えるときのように p65)

答えを考えること、は大切なこと。
同じように、問いそのものを考えること、も大切なことだったのだ。

問いを具体的な言葉やイメージに変換していく苦労の中で、
答えに近づき、その輪郭がつかめる。
そして、それによって更に問いが具体性を帯びてくる。
すると、答えに更に接近する…。

こうゆう問いと答えの螺旋を登っていくことで、答えが求まる。