もうひとつあったんだった!

あ、忘れてた。
ブログ書かなきゃ。
毎日書くって決めてたんだった。

んーーーでもそもそも、ブログを書きたいと思った理由ってなんだったっけ…。

…そうそう、日々学んだことを忘れないようにするため、だった。
忘れないようにするためにはどのような仕組みを作ればいいんだろ?
てなことに対するヒントを得たい!という理由だった。
(ゆくゆくは自分で実装したい(照))

でももうひとつあったんだった!

日常のどうでもいい事に関する、自分の感想や意見を忘れないようにするため、という理由。
例えば、読んだ本の感想だとか、コンビニのおでんはどこがいいのかとか、女の人の好きな仕草は何だとか、女の人の好きな髪型はどんなのだとか、理想のカップは何カップだとか…。

ホント信じられないんですけど、忘れちゃうんですよね、最近。
なので、雑談ができないのです。

老化か!っていうぐらい。
話を振られて、自分の雑感がしまわれているはずの引き出しの中を探してみても、何も見つからないのです。
というか、引き出し自体が固くなってて、自力で開けることさえままならなくなってるようなのです。

でもこれは最近というよりは、ずいぶん前からのことで、、、

大人になってからは、雑談だけでなくて感情さえも、、、

わたしは自分の感情を表に出すのがへたくそで、あとで一人になってじっくり考えてみないと、自分がそもそも何を思っているのかもわからない性質だった。
(森崎書店の日々 (小学館文庫) p7)

というような、お気に入りの小説の主人公に、いたく共感するようになってしまっているわけです。

私の場合はついつい平静を装ってしまって、その場で感情が出せなくなってしまったのです。
要は、巷で話題のコミュニケーション能力の不足というやつです。

どうにかしなきゃ。
という藁をも掴む思いでブログに手を出したのでした。

しかし気づけば、なにやらよくわからない超主観的でマッシュアップ的な内容の話ばかりしていて、、、

それもいいけど(いいのかよ)、それだけじゃないでしょ、という気持ちになってきました。

ということで、日々の雑感を大きく膨らまして、このブログに残していきたいな、と思います。

例えば、読んだ本の感想だとか、コンビニのおでんはどこがいいのかとか、女の人の好きな仕草は何だとか、女の人の好きな髪型はどんなのだとか、理想のカップは何カップだとか…。

分かりやすい文章を書きたい

分かりやすい、とはいかなることか分からないが、分かりやすい文章を書きたい。

こんな文章を読んだ。

「無から有は生じない」
 つまり、言うべきことがあるから話せるし、書けもする。
なければ、なにも話せないし、書けもしない。
さらに、どうしてもという思いが強ければ強いほど、筋道を立てて話さざるを得なくなるし、おのずとその人の個性があらわれて文章も光ってくる。
ここまでを逆に言うなら、「言うべきことがないから、たとえ、あっても弱いから、話せもしないし、書けもしない」のではないか。
 もっと言えば、小説家、劇作家、詩人、学者、エッセイスト、評論家、記者といった書き手たちは、言いたいことを見つけるのが上手な人たちであり、見つけた事柄について、「どうしても言わなければならぬ」と、短時間のうちに気持ちを盛り上げるのに長けた人たちではないか。
なにしろ、そうしないと世渡りができないのだから仕方がありません。
――と、このへんがヒントにならないでしょうか。
日々の暮らしの中から、自分の心の内から、なにか言うべきことを見つける、調べて考えて内圧を高めて、「これを言わないうちは死に切れない」と思いこむ。
少なくても私はそうやって急場を切り抜けてきました。
(にほん語観察ノート p62-63)

にほん語観察ノート (中公文庫)

にほん語観察ノート (中公文庫)

このあと話は表現方法に移り、井上ひさしは「(国語|漢和)辞典をひこう、いいものを読もう」という話を展開し、次の文章で締めくくります。

このように面倒くさがらずに毎日、辞書をめくって、ことばの数をふやし、同時に、その使い分けをたしかめながら、心の内に言いたいことを育てていく。
すべてはここから始まるのではないでしょうか。
(にほん語観察ノート p64)

で、超要約すると、
「内圧を高める」と「筋道を立てて話せられ」、「その人の個性があらわれて文章も光る」。

この「内圧を高める」ということが、分かりやすい文章を書くためのヒントであるような気がします。
何かを伝えたい、という思いが強ければ強いほど、分かりやすい文章が書けるのではないか、と。

そんでそんで、気持ちは十分にある、内圧ははち切れんばかりだ。
という状況だとしても、表現方法がまずかったら分かりやすい文章とはいえない。

井上ひさしは、「(国語|漢和)辞典をひこう、いいものを読もう」と述べ、語彙を増やし、いい表現に触れよう、と説きました。

私はもうひとつ必要だと思っています。
それは、論理です。

「ロジカル・プレゼンテーション」という本のアマゾンページに、次のようなコメントがありました。

論理的思考は、自分が理解するためでなく、人に説明するときにこそ重要だと以前から思っていた(以下略)
(By アセロラパン カスタマーレビュー)

ハゲドウです。

論理的思考は、思考を深め発展させる、という文脈でよく紹介される方法です。
しかし、なんといっても「人に説明するときにこそ」論理的思考は活きてくると思います。

で、人に説明するときの論理的思考について書いている「ロジカル・プレゼンテーション」が、私のような初心者にとっては、とても参考になりました。

この本*1の一部(第2章)を超要約すると、
「論理の飛躍、説明の不足(縦の論理を用いて)」と「漏れ、ダブり(横の論理を用いて)」をなくすことが、論理的思考である、てな感じです。

そういえば、立花隆さんもいろいろ言っておりますね、

ダメな文章を書く人間はどこがいけないのかがだんだんわかってきた。
要するに読む人の立場に立って自分の文章が読めないのである。
(中略)
書いた当人にしかよくわからない文章を一人よがりの文章という。
若いときはなかなか自分を客観視できないから、なべてに一人よがりになりがちだが、それが文章を書くときにもあらわれてしまうのである。
そうならないためには、自分の文章を他人の目で読めるように訓練しておくことが必要である。
(二十歳のころ〈1〉1937‐1958―立花ゼミ『調べて書く』共同製作 (新潮文庫) p30-31)

ここで言われている自分の文章を他人の目で読むための方法が、論理思考力ではないかな、と思いました。

でもいざ本当に文章を書こうとしたときに、論理的にだとか、そんなこと考えてられないけどね。
要は、そういうことが大事である、ってことさえ意識できていればいいような気がする。
が、それじゃ甘いのかな・・・

ま、お察しだとは思いますが、
そもそもこのブログではそんなこと気にせず書いています!

*1:この本は、相手に提案することの意義と技術について書かれた本で、第2章(論理的思考)は序章に過ぎません、ということを断っておきます。

Python自習2011.11-12

Pythonの自習はじめました。

Pythonスタートブック

Pythonスタートブック

図書館にあったのでこの本を選びました。

すごい初歩的なことから教えてくれるので、やや退屈ですが、
譬え話がうまいので、楽しく学べます。

この本を終えるまで、休み毎に図書館で勉強します。

11月23日(水)[1day]

第2章 p66まで読んだ。

11月26日(土)[2day]

第3章 p90まで読んだ。

11月27日(日)[3day]

第4章 p118まで読んだ。

12月02日(土)[4day]

第5章4節 p137まで読んだ。

12月03日(日)[5day]

第6章 p172まで読んだ。

12月10日(土)[6day]

第7章 p196まで読んだ。

12月11日(日)[7day]

第8章 p220まで読んだ。

同時に12月6日(火)から「みんなのPython」で勉強してます。

みんなのPython 改訂版

みんなのPython 改訂版

著者の柴田淳さんは、日本におけるPython第一人者です。
と、「Pythonスタートブック」に書いておりました。
では、みんPy、はじめます!
(正誤表などはこちら)

12月11日(日)[6day]

Chapter05-08 p175まで読んだ。

寒いから服を着る

コロンブスの卵」
巻き戻しで見ると、それは当たり前のこととなる。
しかし、順通り再生して見ると、「どうやって卵立てるんだろうな」となる。

寒い→服を着る

服を着るという選択肢は比較的当たり前に出てくること。
しかしそれは、服を着る→暖かい、ということを、誰かに教えられたり、気づかされたりして得た答えではないだろうか。
寒さに直面したとき、誰もが同じ答えを出せるわけではないのではないか。
(例えば今が石器時代なら、「寒い。よし服を着よう」と発想できただろうか)

じゃあ誰が、寒いなら服を着よう、ということを考えたのだろうか。
(寒いなら服を着る、を発明したのは誰か)

石器時代は、服はなかった。
毛皮はあったかな。
毛皮は暖かい。それに毛皮は身にまとうものであることはその毛皮の主(獣)を見れば分かる。
だから、石器時代の人はそれを身にまとった。
時代が下って、それが衣服になった。
それと同時に、寒い→毛皮(衣服)を着る、が習慣になった。
だから、寒い→服を着る、ことは常識になった。

ん〜、寒いな、今日は。いろんな意味で。

やらかす、をたくさん

メールを送るときって、送る前にあれだけ見直しをしているのに、送った後になってから、不備や不足に気づくことが多々ある。
極端なときだと、送信ボタンを押した瞬間に、「あ、あの表現誤解されるかも!」とか「あ、あのこと書いてねぇ!」となることがある。
つまり、なぜだか、送った瞬間に、それまでと自分が書いた文章への見方が変わる、というか、急に客観的になるような気がするのだ。
自分の文章が物理的に自分から離れてしまうと、それへの見方も自分から離れて客観的になるような気がする。
羽生さんの本読んでいたら、同じようなことが書いてあったので引用します。

羽生・悪い手は指す直前に気づくんですよ、「ああー」って。
   でも盤面に置いてしまうと駄目ですから。
二宮・打つところで気づくものですか。
羽生・ええ、だいたい。または、置いた直後に。
二宮・素人将棋だと「ちょっと待った」ということもできますが(笑)。
羽生・きっと着手が終わった瞬間に、盤面を見る目が変わるのだと思うのです。
   その習慣に相手の手番になるから、それでふと客観化して見たらひどいミスだったと。
(簡単に、単純に考える p73)

簡単に、単純に考える (PHP文庫)

簡単に、単純に考える (PHP文庫)

ただ単にそれの見た目が(物理的に)変わるから、そのようなこと(客観化)が起こるのかな?
将棋だったら盤面が変わり、メールだったら下書き形式から送信済みメールの形式へと変わる。
(こっちの方が優勢な気がするが、、、)

まぁそれは置いておいて、
(駒を指す直前、送信ボタンを押した瞬間にわかる、というのはこれでは説明できないから、、)
以下、羽生さんが言っているようなことを「やらかす」と呼びます。

で、思ったこと。
じゃあ、もうやらかしちまえばいいのでは?
やらかしまくって、事後的に客観性を身につければいのではないか、と。
ある程度もんもんとした後は、時間をかけずにもうメール送ってしまえ、と。
そうやって、文章を書く能力(というか経験知?)を身につければいいのでは?

でも仕事では中々できませんね。
でもブログでなら、「あ、やらかした」と思っても大丈夫だよね。。。

ということで、ブログを用いて、「あ、やらかした」をたくさん実践したいなと思います。
そうやって経験を積むことで「やらかす」を減らしていけたらいいな。