「歴史に学ぶ」と「再発明する」

人生には、自分で出した答えしか残らない。
人に教えてもらった答えなんかすぐに忘れてしまう。
だから、自分で答えを出してほしい。
(多分、金八先生)

一方で、こんな言葉もある。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
(Wikiquote オットー・フォン・ビスマルク)

どっちなんだろう。

自分で経験して出して答えしか、結局は残らないんだよ、というものと、
歴史に学び、今あるものを利用するのが、賢いんだよ、というもの。

前者は、自分で再発明(車輪の再発明)してしまわないと、真に理解したとはいえない、自分で経験しないと自分のものにはならない、という金言だろう。
後者は、歴史は繰り返すだから過去に学べ、
人類は知識を引き継ぐことができるんだから先人に学べ、という金言だろう。

結論から言えば、ミッションクリティカルなものは、後者であり、
失敗が許容される環境(自分にしかしっぺ返しされない時)のものは、前者である。

もちろん、教育的な観点に立てば、前者だ。
こんな言葉がある。

・少年時代に小さな傷をたくさん作ったからこそ、その後の人生を無傷で過ごせてきた。
・たとえ失敗したとしても、のしかかってくるのは自分の体重のみ。
(NHKスペシャル 「公園から遊具が消える」)

で、最近思うんです。
「自分で答えを出したかのように、歴史から学ぶことはできないのか」と。

インターネットの登場と普及により、情報が共有されるようになった。
個人が保有していたノウハウが公開されるようになった。

その情報を使う側が、
「自分で答えを出したかのように、歴史から学ぶ」ことができるようになれば、
きっと、面白いのではないのかな、と思うのです。
いわば、情報提供者が経験した怪我を、追体験することはできないのか、と。

ん〜、まだ考えがまとまっていない。

【補足】
例えば、「勉強しなさい」という親からのアドバイス
親は、自分の過去からの教訓として言っているのだが、
子供にとって、その言葉の意味はわかるが、
そのアドバイスの本質までは分からない。
大人になって、あ〜勉強しておけばよかったな、と思う日がくるまで、
親の言葉の大切さがわからない。
こうではなく、
親のいった「勉強しなさい」という言葉を、
さも自分が経験したかのように、学ぶことはできないのだろうか。
という話。

夜更けと夜明け

大学生の頃、コンビニで深夜アルバイトをしていた。

いつも夜更けと夜明けの決まった時間に、
お店の周りのゴミを拾いに外に出た。

そのとき、お店の外の世界がやけに艶っぽく見えたっけ。

夜更けの時間はどこか街の賑やかさが微かに残っているが、
静けさと暗闇がやけに心地よくて、いつまでもその夜の空の下で、その空気に包まれていたい気がした。

夜明けの時間は、とにかくキレイだった。
とてもすがすがしくて、真新しくて、色鮮やかで、その空の色が変わりきるのを最後まで見ていたい気がした。
たとえ雨や曇りの日でも、そのキレイさは相変わらずで、夜明けはどんな日でも、キレイだった。

でも、仕事中だったので、まさかそのまま外にいるわけもいかず、渋々と店に戻った。
なので、その時間に来店してくるお客さんや外を歩いている人がやけに羨ましく見えた。

で、こう思った。
この仕事を引退したら時々は、夜更けには夜の空を味わい、夜明けには空の色の変化を眺めるような生活をしたい、と。

でもいざコンビニのアルバイトを引退し、夜の時間が自由になったとたん、
そんなことはいつでもできると思って、正確には、寒いし眠いからまた今度、なんて思って、
全然まったくしなかった。
次第に忘れてしまっていた。

そんなことをなぜか近頃思い出した。

不自由なときに感じた、こうしたい、という願望は、
往々にしてその自由が与えられたとき、実行するのを先送りしてしまう。
(そもそもが、その程度の願望だったのだろうか)

でも、そんなんじゃ、何も変わらないし、つまらない。

一歩、踏み出そうかな。

これからは、不自由なときに抱いた願望を、忘れずにしまっておく。
そして、自由になったときに、実行する。

そのときに、まだその願望を叶えたいという気持ちが残っていることを期待したい。

今度、キレイな空の写真を撮って、ブログにアップしよ!

どれがお好み?
Yahoo!_画像検索_「夜」  Yahoo!_画像検索_「夜明け」  Yahoo!_画像検索_「朝焼け」
僕は夜明けですね。

【補足】
自由が制限されいたからこそ、その世界が魅力的に見えていたのだろうか。
そして、その制限がとれてしまい、いつでも手にすることができると分かってしまうと、
人は魅力的であることを忘れてしまう、もしくは魅力的に見えなくなってしまうのだろうか。
ん〜、なんかよく分からん生物だな。
でも、不自由なときにやりたいと思ったことが、本当であるような気がする。

ブログ疲れた。

いえ、まだ疲れていません。
へたっているだけです。

昔々、僕は新聞の朝刊1面にある、新聞記者が書いていると思しきコラムらしきものに、
少しだけ心惹かれていた。
(朝日新聞でいうところの天声人語的なものだったと思います)

時代下って、ごく最近、
昔読んだ本をパラパラと読み返してたら、数行にわたって赤線が引いてあった。以下引用。

高校まで、要約って大嫌いだったんですよ。ぜんぜんできなくて。
――それはね、キミだけの責任じゃないかもしれない。
そもそも要約できないような文章を要約しろって言われたことも多かったんだと思うよ。
オレが小学生のときに隣のクラスでは、作文の練習だってんで、『天声人語』を要約する宿題が毎日出てた。
まったくナンセンスだよな。
――『天声人語』って朝日新聞のアレですか。
――そう。朝日のコラムね。あれは「論」じゃないの。
たとえば、同時多発テロ事件について書くときは、いろんな人の証言を次々引用していって、いろんな角度から事件の諸相を浮かびあがらせようとする。
それとか、多摩川にアザラシが現れて人気者になった事件を扱うときには、遠くから海を越えてやって来たお客さんという連想から、柳田国男の「椰子の実」の話に飛んで、そこからもう一人の民俗学の大物ってことで、折口信夫の「まれびと」論に飛ぶわけ。
つまり、このコラムの売りは、飛躍と連想なの。
どこまで飛べるか、というか、とっぴなもの同士をいかにうまく結びつけるかというのを楽しむんだよね。
論理的につながっていない文章だから、そもそも要約なんて意味がない。
アレを「論」の見本にするのは大間違い。
(論文の教室 p82-83)

ちょっとした文句に聞こえる文章だが、別に著者にそういうつもりはない(と思う)。
単に、学術論文のような、れっきとした「論」ではない、と述べているだけだ。

しかし僕は、この文章を読んで、ナルホド、と思った。
要約できるわけねぇだろ云々、という小気味良い論駁の中の、
「このコラムの売りは、飛躍と連想なの。どこまで飛べるか、というか、とっぴなもの同士をいかにうまく結びつけるかというのを楽しむんだよね」
という部分に、大いに、ナルホド、と思った。

ここではプラスの意味では使われていないが、僕は、
「これこそが、各新聞紙の1面を飾るコラムの醍醐味だったのか」
と神妙な気持ちで本の中に赤線を引いたときの神妙な気持ちを思い出した。

「飛躍と連想」
まさに、これはブログを書くときの大いなるヒントになるのではないだろうか。
(もちろんブログを書く人のテーマにもよると思いますが…)
そして、「どこまで飛べるか」ときたもんだ。
うん、楽しくなってきた。

どこまでも連想を広げて、無限の彼方へひとっ飛び。

いえ、別に僕はそのようには書けませんが、
そういう非論理的な文章の中にこそ、真理が宿るのではないかな、
というような気がなんとなくするのです。
論理こそが、絶対ではないんじゃないなのかな、と。

しかし、この朝刊1面のコラムを読んでいて思ってたのは、書き手の知識の豊富さ。
本当に何でも知ってるよね、っていいたいぐらい、色んなものから色んなものへと、
自由自在に飛びうつる。
文豪の有名な一文から市井の何気ない一文まで、幅広すぎ。
この知識の豊富さと、その知識の取り出し力の高さには、ほんと敬服します。
(いまは新聞読んでませんが…)

最後に、各社の朝刊1面コラムをまとめているサイトさんをリンクさせていただきます。

「新聞コラム社説リンク」
http://www.ne.jp/asahi/sec/eto/NewsPaperLink.html

生物多様性のメリット

生物多様性のメリットはなんだろうか。
なんで生物多様性を守らなければならないのかが分からなくなってきたので考えてみた。
生物多様性のメリットはなんだろうか。

「資源」として有用だから?
例えば、薬品(ペニシリンなど)、素材(クモの糸など)、遺伝子(ホタルの発光遺伝子など)。

「アイデア」として…?
例えば、生体工学(ヘビ型のロボットなど)
(TED ジャニン・ベニュス:行動するバイオミミクリー)

「癒し」として…?
例えば、どこかの生物学者は、日本人なのにジャングルに郷愁を覚えるそうである。
まだ、どこかの小説家は、ジャングルには多様な生物で満たされているからなのか、ジャングルにいると、安心するそうである。
ということをどこかで読みました(いつか出典明示できたらな)。

でもこれらは直接的にはヒトにしか享受されない恩恵だ。
生物多様性の本当のメリットはなんだろうか。

で、昔「どうぶつ奇想天外!」で、千石先生がおもしろい比喩をしていたのを
思い出しました。
ネットで探して見たら、なんと、Wikipediaに同じ文言が載っていました。
さらにさらに、千石先生、あちこちで同じ話をしているようで、Wikipediaさんに以下のページを教えてもらいました。

そういう風にいろんな生き物が絶滅しそうな状態にあります。
あるいは、もはや絶滅してしまいました。
これは非常によろしくない。
なんでよろしくないかっていうと、ここに飛行機が飛んでるとします。
もしエンジンなんか取っちゃったら飛ばないのは当たり前ですね。
例えば、簡単な部品でここら辺にリベット、ねじですね。
そのリベットが飛行機が飛びながら、一個落っこった。
大概そのまんま飛んでますよ。
2 個落っこった、10 個落っこった、100 個落っこった、1000 個落っこった。
そのうち必ず墜落しますね。
 要するに、飛行機は部品の全体集合でできあがってるから、重要な部品は当たり前だけど、簡単な部品であっても、だんだんなくなれば、飛べなくなるのは当たり前ですね。
宇宙船地球号という飛行機も、いろんな生き物の種類っていう部品で成り立ってるわけなんです。
その部品が1 個1 個なくなったら、この地球号が、墜落するってのは当たり前の話ですね。
だから絶滅させちゃいけないわけです。
(2010inTokyo_report.pdf p22)

インフラの勉強をしてて、この文を改めて読むと、思うことがあります。

まず、一つひとつの種はなんらかの役割(ネジという)を持っている、
という前提がこの文にはあります。
実際、そうだと思います。
自然界の一つひとつの種は、それぞれのニッチに応じて役割を担っている。
生産者であったり、消費者であったり、分解者であったり。

で、それらが一つぐらいならなくなっても何も変化はありませんよ、飛行機は堕ちませんよ、
というのが千石先生の比喩。
それはきっと、その影響を何かが吸収してくれているからなんだと思います。

吸収しているのは何か?
分からんけど、きっとそこには生態系特有の仕組みがあるのだと思います。

が、そのひとつとして、「冗長性」があるのではないかな、と私は思います。
そのネジがなくなっててもいいように、バックアップ装置があって、それが働いている。
だから飛行機は飛び続けられる。
(まぁ本物の飛行機の場合はバックアップ装置があるというよりも、単にネジひとつあたりの寄与度が小さいから、それがなくなっても変化はない、というのが現状だと思うけど…。寄与度って何?)

実際、自然界には似たような種がたくさんある。
つまり、お互いが相手のバックアップとなれるような種がたくさんある(適当)。
もちろん、それぞれ個別のニッチを獲得し、生きている。

だからもし、ひとたび一つの種がなくなっても、近い種がその役割を担ってくれる。
つまり、バックアップしてくれる。

平時は、その存在がわりかし冗長にしか見えないけど、なにかが起こると、
残ったものがその役割を引き継ぐ。

で、生物の多様性がなくなると、どうなるのかというと、
どんどんその役割を引き継ぐものがなくなってしまう、ということ。
冗長性がなくなって、役割が一箇所に集中する、ということ…。

つまり、生物多様性というのは、生態系という我々が生きているフィールドに対して、
冗長性という機能を提供してくれているのではないかな、という結論をひねくり出せました。
生物多様性による冗長性が、変化に強い、安定的なフィールドを我々に提供してくれている。
これが生物多様性のメリットなのではないかな、と私は思います。

つまりは、宇宙船地球号とやらは、生物多様性という冗長性をもったシステムによって、安定航行できている。
だから、生物多様性ちゅうのは大事なんだろうな、と思うのです。

【補足1】
ここでいった生物多様性とは、

多様性の3つの階層

  • 遺伝的多様性
  • 種の多様性
  • 生態系の多様性

(はてなキーワード > 生物多様性)

の内、主に「種の多様性」のみを指すのかも。

【補足2】
もちろん、生物多様性のメリットは冗長性だけではなく、
環境変化に対応するためのリスク分散というのもあるのかもしれない。
どれかが生き残ればいいように、様々な種を備えておく。
そういう遺伝子の戦略なのかもしれない。

また環境に適応する面からも、画一的な生物群よりも多様性を持った生物群の方が生き残りやすいと考えられる。
環境に変化が起きたとき、画一的なものは適応できるかできないかの二択であるが、多様なものはどれかが適応し生き残る為の選択肢が多いからである。
(Wikipedia 多様性)

ん〜、ちゃんと進化論とか生態系の勉強したいな〜。
なんか面白い本ないかな。ドーキンスを過激に読もう。
(もう30年も前の本なんだ…。まだ過激なのかな)

【補足3】
なんかまわりくどいな。
生物多様性のメリットは、環境を保全してくれること。
でしょ。要は。
このエントリは、なぜ生物多様性が、環境を保全してくれるのか、
というのを考えたものなのか?
それにしても、なんかまわりくどい。
もっと簡単に言える気がするし、みんなが簡単に言ってくれているような気もする。

【補足4】
確か福岡伸一さんの「生物と無生物の間」で、柔らかな動的平衡、的な感じで、
説明してくれていたような気がする。
あれは、生物個体の中での話だったけ?生態系の話だったけ?
あとで、読み返そう!

【補足5】
このエントリの一部を要約すると、
「多様性とは冗長性をもつもの」
という風になってしまう。
こうしてみると、明らかに矛盾しているような気がする。
多様性というのは、唯一無二のユニークなものの集合体であって、
決して冗長的で、キャラがかぶっている、という類の印象を生まない。
例えば、人材の多様性という文脈で使うダイバーシティは、まさに、冗長性という考え方とは、
相反する概念である気がする(同じ土俵の言葉ではないのかな、そもそも)。
まぁ、「冗長性 = 単一的(キャラがかぶっている)」ということではないのだろうから、矛盾はしてないのかな。

【補足6】
そろそろ生物多様性の崩壊を止めないと、生態系からしっぺ返しがくるような気がする。
(どこまで進んでいるのか、把握すらしていないですが)
人間向けの冬虫夏草なんぞが生まれたとしても、不思議はない。
まぁ下記サイトを見ると、共生、という感じがしますが(笑)
(参考:大竹茂夫 冬虫仮装館の秘密)

【補足7】
あ、おれ、昔読んだこの本に書かれていたことの影響を受けていただけなのかも。

「システムの安定性をささえるもの」
 図7の尾瀬ヶ原生物群集における食物連鎖の表(118〜119ページ)をもう一度見ていただきたい。
実に複雑に入り組んでいる。
もし、自然が意図的に設計されたものであるとするなら、なぜもっと単純なシステムを作らなかったのか不思議な気がしてくる。
食物連鎖の一つのレベルに、一つの種の生物しかいない場合には、なにか不都合が起きるのだろうか。
地球上に150万種もの生物がいる必然性はあるのだろうか。
 食物連鎖だけではない。
先に述べた水の循環、炭素循環、窒素循環など、あらゆる物質循環のシステムは、やたらにチャンネルが多く、その厳密なフローチャートを描くことがほとんど不可能なほど複雑な回路網を形成している。
 この複雑さが何に役立つかといえば、システム全体の安定性に役立つのである。
変化に対する適応性は、チャンネルが多いほど高くなる。
一つのチャンネルがだめになれば、別のチャンネルが引き継ぐことができるからである。
(エコロジー的思考のすすめ p154-155)

小説は辞書?

日ごろ、こんなことを感じていた。

「小説とは、あるひとつの言葉の長い長い定義文なのではないか」、と。
(ある言葉の唯一絶対の定義なのではなく、あまたある(矛盾!?)定義の中のひとつ)

例えば、愛とか友情とか、人生とか(照)。
そういう、コトバで到底表すことのできない普遍の言葉を表現しようとしたものが、小説なのではないだろうか、と感じていた。
(例えば、「ノルウェーの森」は「喪失」という言葉を定義してくれているような気がする)
(もちろん、まだ言語化できていない言葉(概念)を定義している小説も多いだろう)

ちなみに広辞苑では愛とは以下。

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生き物への思いやり。
②男女間の、相手を慕う情。恋。
③かわいがること。大切にすること。
④このむこと。めでること。
⑤愛嬌。愛想。
⑥おしむこと。
⑦〔仏〕愛欲。愛着。渇愛。強い欲望。
キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。
⑨愛蘭(アイルランド)の略
(広辞苑 第5版) ※用例は省略

これだけじゃあ分からない。そこで小説だ!

なんてことを思っていたら、こんな文に会った。

僕は、初めから科学に魅せられていたわけではなかった。
大学生の頃は、文芸評論こそが、感動的な英知の賜物だと思っていた時期もあった。
(科学の終焉 p19)

(文学と文芸評論は違うが、まぁ近いでしょ)
で、次のような文もあった。

ヨーロッパで<国民文学>としての小説が、満天に輝く星のようにきらきらと輝いたのは、まさに<国語の祝祭>の時代だったのであった。
それは、<学問の言葉>と<文学の言葉>とが、ともに、<国語>でなされていた時代である。
そして、それは、<叡智を求める人>が真剣に<国語>を読み書きしていた時代であり、さらには、<文学の言葉>が<学問の言葉>を超えるものだと思われてた時代であった。
(中略)
ところが、<国語の祝祭>の時代に入り、まさに人々が<国語>で読み書きするようになるにつれ、<学問>と<文学>とが分かれていった。
(中略)
<学問が>専門化し、<学問の言葉>がしだいに専門的な言葉になってゆき、<文学の言葉>と分かれていったのである。
その結果、昔は宗教書にあった、「人間とは何か」「人はいかに生きるべきか」など、人間として問わずにはいられない問いに応えられる叡智に満ちた言葉は、専門化されていった<学問の言葉>には求められなくなった。
人々は、その代わり、そのような叡智に満ちた言葉を、<文学の言葉>に求めるようになったのである。
<文学の言葉>の中でもことに小説に求めるようになったのである。
<文学>という言葉が(漢文としての文学ではなく=引用者注)今いう<文学>を指すようになり、やがて小説というものがその<文学>を象徴するようになったとき、<文学>は、まさに<学問>を超越するものとして存在するようになった。
(日本語が亡びるとき p147-148)

つまりは、文学(小説)というものは、人間として問わずにはいられない問いに応えられる叡智に満ちた言葉、なのだそうです。

なんか、小説が世間的にそういう風に見られている、というのをはじめて知った。
こうゆう認識って、常識なの?

【補足】
なお、引用した「科学の終焉」「日本語が亡びるとき」の両方で、文学(小説)は権威をなくした、的な話になる。。。
そうは思わないけどな〜。小説、まだまだ面白いよ!

学びの窓と発信の窓

「タイムウィンドウ」

茂木健一郎が、NHKの「めざせ!会社の星」という番組で使っていた(心理学の?)用語だ。
そうそうこれ。

「脳にはタイムウィンドウがある」
タイムウィンドウとは、物事の始まりから終わりまでの制限時間のこと。
相手の要望に即座に応えることで(=タイムウィンドウの範囲内で応えることで)好印象につながるといいます。
「知らなきゃソンする!スーパー人脈術(前編)」 2011年2月20日放送

つまり、
「子供が質問をしたまさにその時に、その質問に答えることで、子供のそれに対する吸収度が最大になる」
的なことだったと思う(適当)。

つまりつまり、「知りたい!」と思ったそのときが、それについて学習する絶好の機会である、
ということなんだと思います(超適当)。

これには、私にも似たような経験があります。
例えば、卒業論文を書いていた若かりしとき。
論文の書き方に関する本、を購入しました。
(以下の本です。とてつもなくいい本にめぐり合えたと思います)

NHKブックス 論文の教室 レポートから卒論まで

NHKブックス 論文の教室 レポートから卒論まで

社会通念上(個人的ですが)、
論文の書き方系の本は、固くて固くて、読めたものではありません。
しかしこの本は、最後まで読み通すことができました。
この本は、「最後まで読み通せるように」と、著者が「はじめに」で宣言しているくらいですから当たり前のことかもしれません。
しかし読み通せたのは、本の良さもさることながら
やはり、論文の書き方に関する私のモチベーションがこの時MAXだったからだと思います。
つまり、その時が、論文の書き方に関するタイムウィンドウが開いていた時なんだと思います。
知りたい!という要求が一番大きかった時だったんだと思います。
(必要に迫られていたからですが)

で、このタイムウィンドウ。
何も、何かを吸収するときだけの窓ではないと思います。
何かを発信したいときにも、このタイムウィンドウが関係してくると思います。

ふと何かを思ったその時その瞬間が、
それに対して一番しっくりくる表現をできる、一番の機会なんだと思います。

だからtwitterには、コピーライター並の気持ちのいい名言が多い。
(勝手な統計です。具体例も提示できませんが…)

すなわち、書いておきたい、と思った「思い」を持った瞬間が、
一番それを「忠実に」かつ「分かりやすく」かつ「表現豊かに」書ける瞬間である、
と私は思うわけです。

だから、あとで書こう、なんて思っていると、
その思いの内容は伝えられるかもしれないが、それを発見したときの感動までは書くことはできないでしょう。

だから、思い立ったら、みんなみんなtwitterでつぶやこう。

...なんだこの結論は。

【補足1】
俳句だとか短歌の世界で、同じような言葉があったような気がするんだけど、
なんだったっけ?

【補足2】
この卒業論文の経験から、何かに対してモチベーションが高いとき、
それを利用して本を読んだり買うようになりました。
この時を逃すと、もう対象としている事柄に関して、モチベーションの高いまま
接触することはできない、と観念してしまっているからです。
なんか寂しいことだよね。

複雑な生物の単純な指向

人間はものごとを単純に考えることが好きだ。

なんでもかんでも、結論はすっきりとまとめられるものだと考えている。
ステレオタイプな構造が好きなのだ。

例えば、善と悪の明白な対立構造が好きだ。

多面的な事象というのは、類型化が難しく、そのままではどうしても複雑な構造・非対称な構造になってしまう。
その為、捉えにくく、理解しにくく、覚えにくい、という風に感じてしまうのだ。
そのため、勝手な二元論で理解しようとする。

ものごとを白か黒かに分けた方が、例外や注釈がない方が、理解しやすく親しみを感じるのだ。
また、そうでないと、まだ純化されていない、発展途上で未熟なものだと感じてしまう。

人間の脳は、とても複雑なのに、なぜその脳は単純なことを好むのだろうか。
なぜ多義的であるものよりも、一義的であるものを好むのか。
なぜ複雑なことを複雑なまま、
直感視することができないのか、オートマトン化することができないのか。

詭弁ですね!夜更けなので、書き殴ってしまった。

【補足1】

ファインマンのスタイルは、問題に対して、可能な限り単純で基本的な解法を探るというものでした。
物事を簡潔に説明できないなら、「自分はまだそれを理解していないのだ」と信じていました。
(TED レナード・サスキンド:友人リチャード・ファインマン)

ただ、数学や物理に代表される科学が求めているところの単純さとは、違うよね。
シンプルであることは美しいとか、正しいとか、そういうこととエントリ本文の話とは…。

【補足2】

「一流の技術者は難しい物事の本質を簡単に説明する。二流の技術者は、難しいことは難しく、簡単なことは簡単に説明する。そして、三流の技術者は簡単なことも難しく説明する。」 出典は不明だが、共感する言葉である。
(中略)
なお、最後に蛇足だが、「簡単なことを、いかにも難しいこのとのように、簡単に説明する。」というのが、サラリーマン処世術の理想かもしれない!?
(IT Express 誰でもわかるICT > 難しいことを簡単に説明する)

いかなるものでも簡潔に表現できないか考える、という作業はすごく創造的なことだと思うんだけど、この営みもエントリ本文でいった単純さとはちと違う。ような気がする。